小澤征爾音楽塾主催、世界的指揮者・小澤征爾のN響事件とは

小澤征爾さんは世界的に知られている日本人指揮者です。指揮者として不動の地位を築いた小澤さんは、現在は小澤征爾音楽塾を主宰し、後進の指導にも当たっています。

今では「世界のオザワ」とまで言われる小澤さんですが、そんな巨匠にも苦しい時代がありました。皆さんは、NHK交響楽団のボイコット事件、通称「N響事件」をご存じでしょうか?ここでは、普段メディアで語られる機会の少ない、N響事件の真相に迫ります。

小澤征爾・N響事件 <出典:http://hotjupiter.net/seiji-ozawa/>


N響事件とは

1960年にカラヤン国際指揮者コンクールとタングルウッド音楽祭指揮者コンクールにおいて第1位を獲得した小澤さんは、翌年、ニューヨーク・フィルハーモニー交響楽団の副指揮者を任され、音楽界で大きな注目を集めました。

1962年1月にサンフランシスコ交響楽団を指揮した小澤さんは、同年6月に26歳という若さでNHK交響楽団(以下、N響)の指揮者に抜てきされます。しかし、その年の11月にはN響の演奏委員会から、今後小澤氏の指揮する演奏には協力しないと通告されます。これがN響事件です。


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事件の真相


N響事件は音楽界にとどまらず、社会を巻き込む問題へと発展していきました。井上靖や石原慎太郎、三島由紀夫、大江健三郎など、当時の文化人たちが中心となって「小澤征爾の音楽を聴く会」を結成し、小澤さんをサポートします。
そして、1963年1月15日に「小澤征爾の音楽を聴く会」で小澤さんは指揮を務め、超満員の日比谷公会堂でシューベルトの「交響曲第8番未完成」を熱演し、喝采を浴びました。中島健蔵さんらの斡旋により、小澤さんはNHKとの和解を成立させます。

しかし、彼は日本で演奏活動することを諦め、活動拠点を海外へと移します。以降、小澤さんは研鑽を積み、世界にその名を知らしめるのです。

小澤氏が再びN響と共演したのは、1995年1月。何と32年もの歳月を要しました。このエピソードは、小澤さんとN響との間に、いかに大きな溝があったのかを示しています。

N響事件 <出典:http://sample3.seesaa.net/category/2826189-1.html>




N響事件はなぜ起こったのか

N響事件が起こった原因は諸説ありますが、このN響事件は小澤氏が遅刻を繰り返し、しかもそれを他人のせいにして謝らなかったことや、当時の小澤氏はアメリカナイズされた指揮スタイルであり、伝統重視のN響にとって受け入れがたい音楽観であったことが原因であったと言われています。
いずれにせよ、N響楽団員の間で小澤氏に対する不信感・反感が募り、ボイコットに至ったようです。

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事件の真相

上記の内容はあくまで周囲の意見であり、その真相は当事者にしか分かりません。

駿河台大学文化情報学部教授の原田三朗さんは、著書『オーケストラの人々』において、「遅刻や勉強不足という、若い小澤の甘えと、それをおおらかにみようとしない楽団員、若い指揮者を育てようとしなかった事務局の不幸な相乗作用だった」と述べ、小澤さんとN響の両者に反省すべき点があったとしています。


ボイコットが起こった1962年12月、中止と伝えられた定期演奏会の会場に、何も知らずに訪れた小澤氏は、騒然とした楽屋口、そしてがらんとした舞台を見て、非常に悔しい思いをしたそうです。
しかし、彼にとって非常に苦い経験であったN響事件は、彼を世界的な指揮者へと成長をさせる原動力となりました。



おわりに

社会を巻き込む大問題へと発展したN響事件についてご紹介しました。N響事件について記した文献やウェブサイトは少なく、私たちは事件の詳細を伺い知ることはできません。
しかし、この事件が小澤さんの能力を開花させるきっかけとなったことは間違いないでしょう。巨匠と呼ばれる人物も皆、さまざまな困難を経験して現在があるのです。

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